三重県、青山高原の裾野、藤田学園の原点
25周年を迎えて思うこと
安全管理室 臨床看護科長 飯田正子
昭和62年4月1日、田んぼと山に囲まれた景色の素晴らしい七栗サナトリウムに私は就職しました。まだ20代でした。
出来たばかりの建物の中には、机と椅子ぐらいしかありませんでした。そこで、入院生活に必要な医療機器や看護用品を調べ、請求をしていくところから始まりました。10数名の看護師・診療補助と暖房もない寒い中で自宅から持ち寄ったぞうきんやバケツで広い病棟の掃除や勉強会を共に行い、過ごした日々を思い出します。
そして、4月29日昭和天皇誕生日の祝日七栗サナトリウムは開院しました。開院日になっても必要な備品は届かないような状況での始まりでした。
私はその日、夜勤で当日入院された一人の患者は外泊され、誰もいない病棟で夜、勤務をしていました。患者さまの居ない病棟はとても怖かったことを今でも覚えています。
開院時より私は4階病棟(外科の患者さまが主に入院されたいました)に配属され約15年間勤務しました。外科教授より、「術後、看護師さんを不安にさせるような手術はしない、何かあるようならそれは医師の責任だ」私たち看護師のする看護を信じて頂き、私たちは医師を尊敬し、とてもよい信頼関係の中でやりがいのある仕事ができました。
それから、5階病棟(医療型療養病棟)に移り、仕事・私生活でも色々悩むことがありましたが、患者さまの優しい素直な笑顔に癒され、仕事を続けることができました。2年後、1階病棟(緩和ケア病棟)にかわり、そこでは、患者さまの一番大切な時間である最期の時を一緒に過ごさせていただき、患者・家族さまから、「人間の幸せとは」を教えて頂きました。亡くなった患者様の家族から「私は癌になりたい・・・ だって癌にならないとここに入院できないでしょう、私はここで最期を迎えたい」と言っていただき自分の病棟へのご褒美として受け止め、とてもうれしくて看護師で良かったと感じました。約3年後、2階病棟(回復期リハビリテーション病棟)に移り、障害を抱えた患者様から、「あなたがいつも笑顔で声を掛けてくれ、私を見ていてくれて励ましてくれていたから頑張れた」という言葉に、私もこれまで頑張ってこられたと感謝でいっぱいになりました。多くの職員や患者さまとの出会いがあり、別れがありましたが大切な事を本当にたくさん教えて頂きました。
そして今、私はH24年3月21日より医療安全管理者として働いています。歴代の医療安全管理者、薬剤師の福浦先生、松嶋看護長、川北看護長に築いて頂いた七栗サナトリウムの医療安全を引き継いで努力していきたいと思います。
いろんな病棟で経験し、学んだことを生かして、患者・家族さまが安心して、期待する治療やケアを受けて頂けるように、そして当院で働く職員も安心して仕事ができるよう、環境やシステムを整えて医療事故防止と安全の確保に向けて取り組んでいきたいと思います。
25年間多くの職員との出会いと別れを繰り返し、病院も変わってきていますが、田んぼと山に囲まれた素晴らしい七栗サナトリウムの景色は、就職当時と変わらず、私を癒してくれています。