三重県、青山高原の裾野、藤田学園の原点
超高齢化社会の医療を担う医療機関としての誇りを持って
元リハビリテーション部 係長 坂本 理恵
創立25周年おめでとうございます。
私が七栗サナトリウムに勤務したのは病院の開設間もない昭和63年12月から平成5年3月末までと、平成15年4月から平成21年3月末までの二つの期間でした。
最初の勤務の時は病院もまだ始まったばかりで病院スタッフも少なく、アットホームな雰囲気の中、今から考えれば非常にゆったりとした時間の中で、新しいものをつくり育んでゆく使命に誰もが自分のできる力を惜しみなく使っていました。地域の方々からは、何やら名古屋の方の大学が新しい病院をつくったらしい、温泉を使った治療もあるとか・・・・と興味半分、期待半分のまなざしをうけていたようです。そう、その頃の七栗では、建物はまだ本館だけで新館はなく訓練室は理学療法室が本館2階の現在は会議室となっている部屋とその前の廊下、作業療法室は3階の一部屋とラウンジとなっていたオープンスペースと3畳ほどの畳のスペースでした。まだリハビリテーションという概念自体が一般にはあまり認識されておらず、作業療法などは病院のスタッフからも「手作業」と呼ばれていました。1階には温水プールがあり、糖尿病や変形性関節症の患者さまがプールでの自主訓練に励んだり、週に1回はPTやOTのスタッフが介助に入り、脳卒中や脊髄損傷の患者さまの歩行訓練などを行っていました。温泉のお湯のため、1時間以上も訓練をしているとのぼせてしまい、プールでの水治訓練の後は喉が渇いて、3階の作業療法室に戻る前にエレベータ前の自販機でジュースを買ってはこっそりと飲んでいました。リハスタッフも少なく訓練機器もシステムもそれほど整ってはいませんでしたが、患者さんを丁寧に診て訓練する姿勢は真摯なものがありました。
二度目の勤務の時には新館ができ、回復期病棟を立ち上げ、緩和ケアにも力を注ぎ病院のスタッフ数も最初のころとは比べ物にならないくらい多く、活気にみなぎっていました。
地域の中でもリハビリと言えば地元では七栗サナトリウムが筆頭になるくらいの信頼を勝ち得た病院となっていました。人間に例えると最初の勤務の頃は第一次成長期、二度目の勤務の時は第二次成長期にあたっていたのではないでしょうか。特にリハビリテーション部門では若いスタッフが年ごとに増え、新しい研究、よりよい治療法、アプローチシステムの構築を目指し、毎晩のように遅くまで、患者さまの治療について話合ったり、研究活動をしたり、誰もが熱に浮かされたかのように活動していました。それはとてもやりがいのある、楽しい日々でした。対外的にはリハビリマインドを地域に広げるため志摩町での三重県地域リハビリ支援システムモデル構築事業で保健師、ケアマネジャー、介護士などを対象に講義や演習、症例検討などを行いました。この事業では1年の間に参加者が次第にリハビリマインドを獲得し、彼ら自らが考え、実践してゆく姿を見ることができ、日々の看護、介護の中にリハビリ的視点を持つことによって対象者が変化していくことへの自信と喜びを感じていただけた様子に、この事業に携わることができて良かったと嬉しく思いました。
私にとっての七栗サナトリウムでの日々は、作業療法士として成長と自信、仕事をすることの楽しさを存分に味わうことのできた日々でした。
これからの超高齢化社会の医療を担う自信と誇りを持ってこれからも発展していくことをお祈り申し上げます。